「さぁ、食べて食べて! 今夜はカレーだよ」
「あ、ありがとうございます。うわぁ、おいしそうだな」
あれから日もすっかり暮れて、時刻はすっかり夕食時だ。今朝から何も食べていないことを思い出し、香辛料の独特の香りに誘われた胃が、盛大に鳴った。あまりの音の大きさに思わず赤面する。真っ赤になった妹子の顔を見て、男はうれしそうに笑った。
「量を間違えて多めに作っちゃったから、たくさん食べてね。あ、軽くきゅうり漬けておいたから、良かったらつまんで」
ぽりぽり、と小気味良い音を出しながら、小鉢をつまむ。
「ん、なんかほんのり塩気があって良いですね。後で作り方教えてもらってもいいですか?」
いいよー。と言って、茶気がかったくせ毛がうれしそうに揺れた。つられて妹子も微笑み、和やかな食事ムードが漂い始めた。ルーに溶け込んだ野菜の旨味を堪能しつつ、隠し味を一生懸命考えてみたりと、当たり前の日常、のような空間、がそこにあった。
「んー、今日はちょっと香辛料が多すぎたかも」「いえ、結構いけますよ、僕。ほんと、おいしいですね、コレ。いつも僕が作るのとは違うなー。鍋がすぐに空になりそう」「そう言ってくれると作ったかいがあるな。明日は何がいい?」「そうですねー」
ってあれ、ちょっと待て。
ここで妹子は違和感に気づいた。 いつもは一人の晩餐なのだ。言ってて悲しいが、独り暮らしの自分には会話をする相手どころか食事を作ってくれる相手はいない。そう、和やかムードなど、存在することがおかしいのだ。この、違和感の、正体、は、
「何でアンタが、ここにいるんだよ!なんで何の違和感もなくご飯作ってるんだよ!!その上、明日の献立まで決めようとしてるんだよ!!!」
ビシリ、とスプーンをここに入るはずのない人物へ向ける。
そうだ。おかしい。確か、いきなり足が痛くなって、悶絶しているうちにいつの間にか家に着いた。
(そうだ、足・・・!!って、あれ、痛くない?)
見ると、変な方向へと曲がらないように、しっかりと固定されていた。上手く巻いてあるため、全く痛みを感じない。
「こらこら、妹子君。駄目だよ。食事中に人を指すような真似をして」おかーさんは情けないわ。
そう言って意に介さないようにカレーを口に運ぶ姿に妹子は言っても無駄だ、と悟る。この手の人間は、言葉では敵わない。行動あるのみ、だ。
「―――――痛っ!」
思わず勢いで立ち上がった妹子は全身を貫く刺激にバランスを崩した。怒りにまかせて怪我の足を軸に地を蹴れば、その先は言うまでまなく。
(倒れる―――――)
このままでは落下位置にあった机の角に思い切り強打するに違いない。受け身を取れればいいのだが、痛みに占められた体は常ならば反射的にできる行動すらも奪ってしまったらしい。為す術なく沈んでいく。唯一正常に動いた瞼だけが閉じられた。
しかし、想像していたような痛みどころか何の衝撃もない。
恐る恐る目を開けると、視界一杯に薄緑。ふわりとした温かさを背中にに感じ、やや遅れて、支えられているのだと気づいた。しっかりと腕一本で抱きかかえられているその体勢は、否応なく相手の息使いまで聞こえるほど密着していることを教えてくれる。
「――――危ないなぁ。」
怪我してるくせになにやってんのと、小さくつぶやかれたそれは、耳元で発せられれば囁かれることと同義である。ぞくり、と全身が総毛立つのを感じ、慌ててその腕から逃れようと躍起になる。
「離して下さいっ」
「離したらこのままぶつけちゃうけど良いの?」
呆れたように男は言う。
「いいから、おとなしくしてなよ。片付けも私がやっとくから。」
「あ、ありがとうございます」
取り合えずお礼を述べる。まぁ、先ほどの調子じゃそう言われるのも無理はない。ここは甘えておこう。
「立ち上がるのがつらいんじゃ、しばらく生活するのはつらいんじゃない?さっきみたいなことがあると心配だし、私、しばらくここで家事やってあげるよ」
「は? や、でも」
「その足じゃしばらくまともに動けないだろうし、しばらくお仕事は休んだ方がいいかもね。それか、事務仕事を回してもらいなよ。家のこととか身の回りのこととか私がやってあげるから。あ、遠慮とかしないで。元は私にも少しだけ責任があるし。その方が危なくないでしょう?」
「は、はぁ」
「いいでしょう?」
「は、い」
(まぁ、料理も手当ても悪くなかったし。)
普段ならば絶対にこんなことは言わない。しかし、この男の前ではその壁が意味を為さない、また、そんなものを作ることなど疲れるだけだということが、これまでの会話から何とはなくわかった。そして、何より、この男の前ですでに何度も失態していることが、妹子に反論を許さなかった。あまり人に弱みを握られたくない性格のおかげで、仕事以上に他人とのかかわり合いを避けてきたが、この男の前での自分はどうだ。
(思い出したくない・・・)
密かにへこんでたりする。
しかし、一番ショックなのは、そのことを嫌だと思っていない自分がいることだ。であって間もない人間に心を許したのか。この手当てのせいか。いや、まさか、食べ物で!?
悶々と思考回路が負の螺旋を描きつつあるところで、あれ、と思った。
「・・・・・」
あれ、そういえばさっきから男の声が聞こえない。不審に思って、顔を上げると、至近距離から鳶色の瞳。
「何すんじゃぼけぇぇぇ!!」
本日初めてのクリーンヒット。しかし、男の手は緩んでない。「まっする!!」と変な掛け声を発し、酷いよ、と涙目で言ってくる。
「ちょっとしたジョークなのに」
「僕、正真正銘男ですけど!?見ればいいじゃないですか、ほら。なんの膨らみもありゃあしません。なんなら触りますか!!」
そう言って、胸元のジッパーをへその辺りまで下ろし、はだけさせる。ああ、こいつもか、と少々うんざりしながら。
肩口で切りそろえられた髪と、童顔。それだけで好奇の目にさらされることは多々あった。夜道を歩けばゴロツキにからかわれ、職場でも誤解から揉め事、不倫の嫌疑などこちらからしたら迷惑極まりない疑いばかりで、そのために部署を転々とすることが多かった。先ほどの人だかりも、大多数は面白がっていたことは十分に知っていた。まさか、この男も自分をそういう目で見ていたとは。
情けないやら、悔しいやらで全身の血が沸騰しそうだ。誤解を解くために何度も行う行為とはいえ、慣れるものではない。いや、慣れたくはない。
うっすらと羞恥の念から耳元が赤くなるのを自覚して、男の驚きに開かれた目を見たくなくて、目をそらした。早く終われ。そして、気味悪がって、二度と近付かなければいい。
しかし、妹子の予想は、男の一言によって、大きく裏切られることとなった。
「あれ、意外と大胆だね。妹子君て。」
(あれ、予想と・・・・?)
にこやかに言われた台詞は、初めての反応だった。いつもなら、すでにここに人影はないはずだが、この男と来たらどうだ。先ほどから、「出会ってすぐにそんな」だとか、「松尾、まだ心の準備が」などと訳のわからないことを顔を赤らめつつ話している。まだ女だと思われているのか、と弁解する前に、ふと、初めて男の名前を聞いたと思った。
「松尾さん、というんですか」
それを聞いて、ああ、と男も呟く。
「そうそう、自己紹介もまだだったのに。一緒にだなんて。松の木!!」本日、2発目。
「いちいち変な掛け声上げるの止めて下さい。あと、僕は男です。」
イタイイタイ、と頬をさすりながら涙声で、男は、「松尾芭蕉」と名乗った。
「・・・じゃあ、お互い自己紹介も軽く済んだところだし、行こっか」
「は、どこに?」
まったく意味が分からないという顔の妹子に、またまたぁ、と芭蕉はわざとらしくゆっくりと言う。
「君から、誘ったく せ に」
面白そうに芭蕉は呟いた。
「このままお布団に連れ込んじゃうけど」
「はぁっ!?」
「いいの?」
いいわけあるかぁ!!そう叫ぼうとして、前にも、そんな感じの会話がなされなかったか、と妹子は思い出した。目の前でにこやかに「寝床を共にしよう」と言ってくる相手に、自身の貞操の危機を感じ始める。これだけ男だ、男だとアピールしているのにこの流れ。まさか。
「アンタ、もしかして、」「どちらもイケるけど?」
「皆まで言うなぁー!!」
夜の帳に妹子の叫びだけが木霊する。はたして誤解が誤解を呼び、人生最大の危機を迎えた妹子の明日は。
一説では、もういよいよという時に芭蕉がぐったりした件の友人の存在を思い出したために事なきを得たとかなんとか。真相は明日の妹子の首筋にあるかもしれない。
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