海の日(いつもと違う河合さん)

日光で暖められた体を引きずりながら、だるい目覚めを迎えた。
寝返りを打つほどに、自身の体で熱くなった布団が不快でたまらず、とうとう起きる決意をした。寝苦しさに耐え切れずの起床ほど最悪の目覚めは無い。
タイマーで定められた時間までは忠実に働いていた扇風機も休息の時を過ごしており、己の体に涼をもたらすものはカーテンで遮られた窓の向こうに申し訳程度に揺れる風鈴のチリン、という音のみだった。
風の吹かぬ部屋の中は悶々とした熱気が渦巻いており、涼しさを通さず太陽のジリジリとした熱気は運んでくる熱い布に畑違いだとは思いつつ怒りをぶつけるようにして両サイドに仕舞った。


夏休みだ何だと浮かれ騒ぐ級友たちがこぞって実家に帰省すると言うので、面倒だと思いつつ見送りに行ったのは確か一昨日だったか。
冷蔵庫から冷えた牛乳を取り出し市販のスープの素と混ぜながら、なぜこんなにも静かなのだろうと考えていた。
朝に弱い曽良は、目覚めの機嫌が悪い。睡眠を邪魔するものは上級生だろうがなんだろうが容赦なく蹴飛ばせるほどに。(もともと彼は上級生に対して遠慮するような人間ではないからこの例えは可笑しいかもしれないが) 夏の朝は毎朝ラジオ体操だろう、と嬉々して主催していた上級生たちの歌声で不快な早朝起床を強要されていたここ数日を思うと、日が限界まで上る正午まで眠っていたという事実に違和感を感じてしまったのだ。
それほどにあの生活を日常であると順応してしまったということだろうか。
不快以外の何物でもない、というように頭を振って今し方考えてこと全てを消しさる。他人が自分の生活へ介入することはそれが例え間接的なものであり、曽良本人へ故意に向けられたものではないにしろ、許せない。
ちょうど、談話室の入り口に人影も見えたことで思考をそちらに向けることは簡単に行うことができた。
少し色素の抜けた鶯色のくせ毛に、鈍い色を放つ緑がかった瞳。
見たこともない男だった。とはいえ、ここにいるということは、寮生であるから得体のしれない、というわけでもない。
1人で過ごすことを好む曽良には珍しく、自分以外に人がいることに嫌悪を抱かなかった。嫌ではない、と考えるどころか、「話でもしてみようか」と考えるほどであった。先ほどの思考を忘れさせてくれるなら誰でも良かった。
この事実を日頃の彼を良く知る者が聞けば、それはもう占い師に地球最後の日を告げられた彼の日の国民のごとく驚くに違いなかった。
それほどに、あり得ないことだった。


他人に興味が無い。
それは、河合曽良という人間と少しでも関わることがあれば感じざるを得ないことだ。
まず、会話を成立させることができないのだ。
「ああ」「うん」この2つが返ってくれば良い方で、ひどい時には存在すら認められていないと錯覚するほどに(もしかしたら錯覚ではないかもしれない)無言の姿勢を保っている。唯一彼が行動を共にすることのある2人の級友でさえも、「河合の性格は治らない」と断言しているほどだ。それは、彼らが同じ扱いを受けているためだろう。
そんな曽良が小説を好んで読むことに2人はいつも違和感を感じていた。彼に主人公の気持ちなんてわかるのだろうか。
「お前さ、後ろ髪引かれるとか分かんないだろ?」
「分かりますよ。意味は・・・」
「違うよ。意味を聞いているんじゃなくてさ。実体験であるのかってこと」
「特には」
しれ、と気にした様子もなく答える曽良にコイツの感情が動く時が来るのか、と不本意ながら心配になる2人だった。
自分たち以外に話せる人間ができるものかと。
しかし、暇さえあれば本を開き外界との接触を拒んでいる彼に対して「話しかける」というコミュニケーションの第一歩を踏み出そうとする勇者は後を絶たなかった。
一芸に秀でたものというのは集団の中で他者の反感を買い、嫉妬の対象になりがちだろう。しかし、曽良の場合は天が与えたものが多すぎた。
容姿端麗。博学博識。さらには運動神経もそれなりという、恐るべきポテンシャルの持ち主。
あまりに差をつけられてしまうと、人は張り合おうとする気持ちを無くなってしまうらしい。
そうした「競い合いたい」感情の一つである嫉妬も、彼の前には現れることが無かった。よって、曽良が人の輪を外れることは無く、むしろ彼の興味を引こうとする人に囲まれる生活を送っていた。
その一端には曽良の友人とみなされている(間違いなく否定されるだろうが)、空手全国制覇者小野妹子と、金髪紅眼の帰国子女(ただし、帰国子女は噂の域を出ないが)である六道鬼男との交戦を避けたいという意思が少なからず混ざっていたのだが。
そんな彼に欠けてしまったもの、それが意思疎通能力、また、それに対する意欲であった。


「ここ、空いてる?」
「ああ、はい、どうぞ」
話しかけてもいいか、と思いつつ、長らく行っていないソレを見ず知らずの人間へ簡単に行えるならば、これまでの話は無かったはずだ。その通り、珍しく意欲を持っていた曽良であるが、何をすべきか、どうすべきか分からず、形容するならば"おろおろ"という極めて挙動不審な態度を取っていた。もっとも、そうした動揺を表面にだしはしなかったが。
向こうから話しかけられる、というのは楽だ。こちらから話題を考えなくても良いから。
今の会話が、しばらく続くと思っていた。これまでも、そうした話しかけられ方は良くあったから。 しかし、曽良の予測は外れていた。
その男子生徒は、席に着くとそのまま曽良など意に介さないように料理本を開き、会話をしようという意欲が全く見られないのだ。
今までこんなことは無かった。
寮でも学内でも、曽良と話したがる人間は絶えなかった。否、あのラジオ体操の上級生も良く思い出してみれば、こちらの文句など聞く耳を持たなかった気がする。
この人も上級生か? 滅多とない交流の機会を自分から逃すなんて、と考えて些か傲慢過ぎた、と反省する。
逆に今までが異常だったのだ。皆が自分に興味があると考えるなど、自意識過剰ではないだろうか。
「あの、」
「ん?」
本をめくりながら、顔を上げずに男は反応した、ように見える。
いまいち反応があやふやでこちらに向ける意識があるのか分からない。
「その本は、」
「料理本。談話室に毎号置かれるでしょ」
興味があるなら取ってきなよ。そっけない返事に少しムッとする。
問いかける声に被せるようにして答えてくる辺り、邪魔をするな、と言外に伝えているのだろう。
確かに、読書中に話しかけられるほど苛立つことは無いな、と、邪険にされたことを怒るよりも、納得することが勝った。
どうも、間の前の鶯頭は自分と似たような人種らしい。
そのとき、曽良の胸に浮かんだ感情は、親近感、と呼ぶに相応しいものであったが、人付き合いに疎い曽良はまだ気付かなかった。妹子にも、鬼鬼も感じたことのあるソレに戸惑いつつ、まだ話しかけるべきか否か迷っていた。
人の動向に気を使うなど、と笑う人間も、驚嘆する人間も、曽良に気遣われている男に対し、羨望を向ける人間も、ここにはいない。河合曽良が、河合曽良であるとは思えない行動の数々を見せていることに、気づくものはいないのだ。

そうこうしているうちに、本を読み終えたらしい男は本を置き、談話室に設置されている冷蔵庫からいくつか食材を取り出し、鼻唄まじりに包丁を動かし始めた。
へぇ、何の気なしに見ていた曽良も、思わず目を見開いた。ここで調理をしている姿と言うのは差して珍しいものではない。学食の利用しない学生は大抵この場で自炊をするからだ。妹子や鬼男と材料費節約のためによくここを利用している。
男の包丁さばきは、上手かった。歌うように包丁が走る。
あっという間に作られたのは、焼き飯だった。香ばしい香りに思わず喉が鳴る。
そういえば、もう昼飯時だ。寝起きにしては空腹を感じるはずだと納得しつつ、自分もそろそろ何か作ろう、と席を立った。この男の話す機会ももう無いか、と思うと何故かここを去りがたい気持ちになるが。
後ろ髪を引かれる、とはこういうときに使うのだろうか。
「はい」
突如目の前に出された器に、先の思考が遮られた。食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐる。
「なんですか、これ」
「え?焼き飯だけど?」
「それは知っています。なんで、貴方が今作った焼き飯が僕の目の前に差しだされているんですか」
「ここに、私と曽良くんがいて、君のお腹は空いているでしょ?だったら一緒にご飯食べればいいかなーと」
ケロリ、と言ってのける男を曽良はまじまじと見つめた。展開が分からない。
今の今までこちらとの交流を断っていたかと思えば昼を共にしようと言う。しかし、
「いただきます」
飢餓に近い空腹を感じていることも事実なので。
「どうぞ」
料理の最中に男がラジオ体操を歌っていたこととか、
男が自分の名前を知っていたのに、向こうの名前を聞き忘れていたこととか、
お冷のお代わりを受け取り損ねて2人そろって着替える羽目になったこととか、
着替えの最中に何故か男の方を直視できなかったこととか、


全てがつながり、2人の男の交流が始まったのは、初秋のころだったという。