(言うぞ、今日こそ言うぞ・・・!!)
これまでに幾度となく繰り返された一大決心を、本日も律儀にこなす。
梅雨入りを予感させる連日の大雨が嘘のように、晴れ上がった昼下がり。
天高く拳を振り上げるように心を高ぶらせ、戦場へ向かうような緊張感の下、鬼男は、厳めしそうな顔つきでその部屋の前に立っていた。より正確にいえば、薄緑の塗装が剥げ落ちつつあるドアの前だ。
すぐ隣に備え付けのインターホンは押す必要が無い。家主から、必要なしとの通告を受けているからだ。
つまり、腰元に位置する銀色のノブを回せば、簡単に部屋へと侵入できるのである。
侵入とはいっても、この部屋の構造上、いくら忍び足で体を滑り込ませようとも、住人に対し、気配はおろか姿すら隠すことは不可能だが。
ゴクリ、と喉を鳴らしつつ、冷たい銀色を握る。
鬼男はすでに家主の現段階での行動を知っていた。
ドアを開けた先に広がる、リビング兼ダイニング。
その真ん中に堂々たる存在感を放つ、彼のお気に入り。
程よい弾力でくつろげさせるその茶色ソファーの上で優雅に腰を落ち着け、アフタヌーンティーならぬ日本茶を片手に読書に勤しむ世帯主。
物語がいかに佳境であろうと、戸が開く音に瞬時に中断し、鬼男を迎え入れるだろう。
それはもう、とびきりの表情で。
ここまでのシュミレーションは完璧だ。何度、この流れを行ったと思ってるんだ。
鬼男は不甲斐ない自分に対し、毒づいた。
いっそ清々しいほどの、ワンパターン。ワンパ。犬の卒倒。
済し崩しのように、部屋へ行くようになってからもうすぐ一年となる。
休みの度に。2人で出かけるし、手も、つないだ。
キ、―――口による愛情表現もした。
セ、――――・・・・もした。
世間一般的に、恋人、の類が行うとされうる行為のほぼ全てを網羅しておきながら、鬼男は、肝心なことを未だ遂行できないでいるのだ。
本来ならば、上記の行為が行われる以前に当然としてされているはずの、前提としての確認のような、暗黙の了承を得るための一種の儀式のような、約束事に近い(と鬼男は考えている)事なのである。
もちろん、常識に対して反することを良しとしない鬼男であるから、何度もソレを行おうとした。
時にフランクに。時に真剣な面持ちで。
しかし、どれもこれも失敗だった。それもこれも、原因は判明しているのだ。
(顔を見たら言えないんだ。だったら、入ると同時に言えばいい)
あまり褒められた方法ではないが、とにかく伝えることを優先したい。
もうすぐ一年だ。いい加減、はっきり伝えたい、それもある。
だがそれよりも、
『いい加減、受け取ってくれないの?鬼男くんのために作ったんだけど』
唇を尖らせる芭蕉の姿を思い出す。
(ごめんなさい、芭蕉さん。もう少しですから)
両手で顔を打ち、気合いを入れ直す。
口を何度も形作り、発音の練習をする。リハーサルは、本日も完璧だ。
―――いざ。
このノブを回せば、コングが鳴る。
「ばしょうさんす―――」
「いらっしゃーい、におく・・・ってどうしたの、しゃがみこんで?」
本日もシャイニングスマイルいただきました。
まばゆさに目を眩ませ、鬼男は思わず崩れ落ちる。スピード勝負でも敵わないとは。
まさに、鬼男が来ることを予想していたと言わんばかりの対応だ。
勢いよく戸を開けたにも関わらず、芭蕉は驚きもせず、満面の笑みで迎え入れた。
愛くるしい微笑みに、鬼男はもう呂律が回らなくなりそうだ。
しかし、悶えている場合ではない。渾身の力を入れて立ち上がる。
今日を逃せば、もう。
「ばばばば、芭蕉さん!!」
「は、はい!!」
瞳孔を見開き、掴みかからんばかりの勢いで芭蕉の肩に手を置く。
心臓はすでに小動物並みの速度で稼働している。限界点突破だ。
口にすることがこんなに難しいなんて。
対する芭蕉は、挙動不審な鬼男に驚くばかり。
小首を傾げ、心配そうに鬼男のほほに手を当てる。
「どうしたの?お腹痛い?」
お腹の不調を聞いているくせにどうして顔に手をやるんだ!ああちくしょうかわいいな!!
「だいじょうぶです」
「顔真っ赤じゃない!具合悪いなら無理して来なくても。そりゃあ、今日来てくれたのは嬉しいけど」
カレンダーに視線をやる芭蕉に、つられて鬼男もそちらを見る。
それはもう見事な花丸が、本日の日付を囲んでいた。
見事な達筆で、<一周年>とだけ記されている。
「―――」
「でもつらいならやっぱぶほっ」
羞恥心より、愛しさが勝った。
この一年で、初めて鬼男から芭蕉に手を伸ばす。
「ずっと、言いたかったんですけど、」
貴方が、すきです。
後日、鬼男の手には、ドアノブより輝く、リングがひとつ。