今だけは、俺のもので

彼の匂いは秋の色。干し草や落ち葉を踏んだときの優しい香。
だから彼の近くにいると懐かしく暖かい。

俺は秋がどんなものか知ることは無いし実物に触れたことはないけれど(だって天井楽土は常に青々した葉の季節だし)、嬉しそうに、はにかむようにそのことを話す、鬼男くんの顔が好きだったから、ただ一言、そうだね、と応えた。

最近天国へと送った俳聖さんを、鬼男くんはいたく気に入っていた。彼に話してもらったという異国の旅のことをうれしそうに何度も俺に話して聞かせた。 面白そうだから、俺も会いに行こうかな。

そう、最初はその程度の感情だった。






門をくぐり、戸を開いた先に見えるのは果てなく続く蒼と碧。
転生までの時間をここで過ごす人々があちらこちらで思い思いの時間を過ごす。
あまりにも広い世界を自由に過ごしているのでどこに誰がいるのか探すのは少し手間である。
ただ一人を除いて。
一面に広がった草地と穏やかに流れる川沿いに、その人はいた。
「芭蕉さん。」
呼ぶ声に反射のように振り返った顔はキョトリとしていたが、ややあってふわりとほころんだ。
その時の表情の動きが好きで、この瞬間が見たいから俺はいつも背後から声をかける。
「久しぶりだね。お仕事終わったの?」
「へへ、優秀な秘書がいるから」
「……さぼりだね」
「うん。芭蕉さんに会いに」
最近ご無沙汰だったし。そう言うと、さっと歓喜の色が見えるのを俺は見逃さない。彼は人が傍にいることを好む。そのくせ、心の底はけして他人に見せない。生前から一定の地位に居たが故に、周囲の目に敏感だった彼は、本当の感情を隠すことを身につけてしまっていた。侮られては、生きていけないのだ。
感じようとしなければ、簡単に見失ってしまうほど彼は巧妙に本心を隠す。しかし、俺は相手の感情を読み取ることを前提としたとこ職についているため、本心を悟ることに長けていた。
知りたくなくても分かってしまうこの能力を疎ましく思ったこともあったが、今のこの時こそ使えるならば、それでいい。
ほころびを直ぐに、見つけれるから。彼を存在だけの思念体などにしたくない。生き生きとした言葉、声、体。彼を構築するすべてが無くなるなんて。 だから、だから、消したのだ。本来ならば、封じるだけで良かった。これは、特例中の特例。鬼男くんも知らない、俺だけの秘密。彼が本心を隠そうとしなかった、唯一の人の記憶。共に旅した愛弟子の。「髪に葉っぱが付いてるよ」 そう言って、彼の頭に触れる。こうして素直に俺の言葉に従う彼の真意だけは分からない。 一瞬のうちに、記憶を探る。 あ、ここだ。ほつれてる。



天にいるには、地上での記憶―――すなはち、「生きていた時の自分」に関する記憶をもっていてはならない。これは、再び輪廻の輪に入るために、けして犯すことのできないこの世界での規律である。 犯した者は、地上において、思念体―――俗に言う「霊」の類として、肉体を持たず、天上へも地の底へも行けずに彷徨うこととなる。人の思念は強く、時には生き物に危害を及ぼすこともあり、そうした存在を出さないためにも「記憶」に関することは、慎重に行う必要があった。生きるものに対する「念」が強いほど、記憶の封印は難しい。特に、その者との間に恋慕の情があればなおさら。よほどの想いがあったのか、彼は記憶の封印を易々と解いてしまい、あわてて通常の人間ならば必要のない「消去」を行った。こんな人間は芭蕉さんが初めてだ。 初めてのことで、それでも、弟子を読んで鳴きながら次第に薄れていく彼の姿を見ることだけは絶えられなくて、とっさにしたことだった。あわてて行った術はひどく不安定だ。そのせいか、ときどき「ほころび」が生じてしまう。そこから、その人間を形成する全てを丸ごとほどいてしまうような、大きなほころびが。下書きから清書していくように、初めの術式を基に、術を完成させる。これは、俺が一人で直さなければならない。
しかし、あまりに仕事を抜けると、真面目で融通のきかない秘書に怪しまれてしまう。
そこで、彼に用意した。とっておきのプレゼント。
「へへ、ばしょーさん。いーもの見せてあげよっか?」
「わぁ、今日はなんだろう!!」
「それは見てのお楽しみ。じゃ、目を閉じて?」
会った時の喜びようといい、疑いもせずに言葉に従ってくれることといい、こうして素直に信じていると分かる行動をするから。 公平に判断せねばならない自分が、感情のままに彼の処遇を決めてしまう。 ざわり。信頼されているのだと分かるだけ、現状を思うといたたまれない。芭蕉さんから一番大切なものを奪っておきながら、今現在彼がすがれるのは自分しかいないという状況を俺は喜んでいる。
かつての彼の思い人の位置を、仮初でも手に入れることのできた今を手放したくない。
軽く念を込めた手のひらを彼の額に当て、

ほころびを 消した。


「もういいよっ」
「うわっ可愛い!!」
懐から取り出したぐったりとした熊のぬいぐるみを差し出すと、嬉しそうに抱きついた。


「なんだろう、この触り心地!」


もふもふもふもふ。よほど気に入ったのか、視線はもうそのぐったりしたぬいぐるみに釘付けだ。


「それ、あげる」
「!! いいの!?」


やったやった。こどものようにはしゃぐ彼を見ていたら、なんだかこちらの気分も明るくなる。
罪悪感からの、ひとときの解放。
そのぬいぐるみには、一種の媒体として彼の傍に置く。
芭蕉さんが、弟子のことを思い出さないように。消えてしまわないように。
あと少し。後もう少しで完成だ。
もう当然消えることもない。安心してここに居てもらえる。



そうしていつか、輪廻にはいるその時まで。
俺の傍で、笑っていて。